たじまあき|自己紹介

生き生きした人が好き!みんなが生き生き輝く姿を見るのが大好き!

こんにちは、田島亜希(たじまあき)と申します。

私はとにかく生き生きとしている人が好き!

生き生きと輝いている人の姿を見るのが大好きなんです。

私は今

  • 広告撮影に携わる、ヘアメイクやスタイリストなどのクリエーターを手配する仕事
  • SNS立ち上げ&導線づくり、プロフィール・ホームページ・名刺の作成とそれに必要なPR用写真撮影をブランディングを丸っと承る「Collective Branding(コレクティブ ブランディング)」というサービス
  • 夢や目標をみんなで叶える仲間づくりのコミュニティ運営
    を中心にお仕事をしています。

全てに共通するのは、「人と人」や「人とお仕事」をお繋ぎし、豊かさやビジネスチャンスが生まれる場を提供しているところ。

私が人やお仕事をお繋ぎすることで、みんなが喜んでくれる。みんなが生き生きと輝き笑顔になる。

それが本当に嬉しいんです。

今回そんな私の歩んできたストーリーを自己紹介としてお伝えするにあたって、実は少し躊躇する気持ちもありました。

正直、私にはわかりやすい「苦労」や「闇」などありません。幼い頃に貧乏暮らしをしたこともなければ、親などが亡くなった経験などもありません。
周りからは、なんでも順調にうまくいってると思われていたりします。

 

ですからそんな私のストーリーが受け入れられるものなのかもわからず、なんとなく自己紹介作りを放置してきました。

 

ですが、最近、色々な方の自己紹介を拝見し、その中にあるストーリーに感動や気づきをいただいたので、私も思いきって書いてみることにしました。

 

  • やんちゃな女子高生でしたし、
  • 無謀にも取引先「0」で起業したり、

しかしそこからどんな風に顧客や売上を確保していったのか。

 

以前、そんな私の起業ストーリーをお話しした方には

「亜希さんのお話を聞いてやる気が出ました!」
「元気が出てきました!」

と言っていただけました。

 

そんなふうに、私の自己紹介が何かあなたのお役に立てたり、人生のヒントになれば嬉しく思います。

 

ブサイクな赤ちゃん

幼い頃から、とても可愛がられて育ちました。

赤ちゃんというと白くて柔らかくてそんなイメージだと思いますが・・・

私は地黒。しかも髪は剛毛で突っ立ており、帽子を被せてたそうです。

 

赤ちゃんって必ず「可愛い〜」って言葉が漏れると思うのですが、

 

母と幼少期の私に会いに来た人は、
必死に褒め言葉を探した末、
「元気そう〜」だったと母は笑ってました。

 

しかも家族以外にはプイっとする無愛想。
お世辞にも可愛いとは言えない子だったそうです。

 

話を聞く限り、見た目も性格も
俗に言うブサイクな子だったんだろなぁと。想像ができます。

 

しかし両親や兄など家族は、皆、私のことを「可愛い可愛い」と言って接してくれました。

それと同時に
母は私にパーマをかけたり
リボンやフリルのついた洋服を着せたりと、めいっぱいがんばって可愛くみえるよう努力してくれました。

やんちゃな女子高生時代

そんな環境ですくすく育った私は、
東京の中高一貫の私立の女子校に進学しました。

私なりに私立に入ったし!
と、意気込んでいたのですが、

中学に入ってすぐにあった小テストで、
勉強した割に良い点がとれなくて

そこから
私は勉強をすることを放棄しました。

部活はというと、
水泳部に入ってたものの

ほぼ幽霊部員。

中学の頃の
楽しい思い出と言ったら

お祭りに行って、

男の子と知り合い

グループで遊ぶ。
そんな可愛い感じでした。

高校生になると、
1つ年上の彼氏ができました。

彼は
このストーリーの

キーパーソンでもあります。

出会いは新宿の歌舞伎町

ライダースに
バイクのヘルメットを持って

私のいるお店に
彼は突然現れました。

薄暗い店内にいる私たちグループに

「M高校の子いる?」と、

彼は
話しかけてきました。

彼は店内にいる
他のどの高校生よりも

私の目に魅力的に写り、
放つオーラも違いました。

M高校とは、
私の通っていた高校で

当時
M高校の私の先輩たちは

セブンティーンや
プチセブンと言った

高校生に人気だった
ティーン雑誌によく載っていたのです。

彼も同じく
雑誌に度々載っていました。

「はい!
M高校です。」

私が手を挙げると

彼は
私の隣に座りました。

ほぼ満員の店内で

奇跡的に空いていた
私の隣の席。

彼は
そこに腰を下ろしてから、

2.3

会話を交わしたのです。

どうやら
私の先輩たちを
探してたようでしたが、

結局彼は

探すのを諦めたのか、
私たちの集まりに自然と溶け込んでいきました。

高校1年生だった私にとって

遊び慣れた
2年生は大人で魅力的でした。

しかも
雑誌に載っている人は

高校生の間では
有名人と同じ扱いでしたので、

胸が高なる

なんていいますが、

まさに
私はそんな状態でした。

それが高校1年
秋はじめの頃のお話。

クリスマスやお正月を経て

1月の寒い日

私は渋谷の宮下公園で
彼に告白してもらい、
正式にお付き合いすることになりました。

彼は頭が良くて、
見た目もカッコいい。

遊びも勉強も
何でも一生懸命頑張る人でした。

彼が
原宿や表参道を歩けば、

カットモデルにならないか
と声をかけられる。

そんなちょっと
人目を引くような存在感もありました。

ティーン誌の他にも
美容系の雑誌にも何度か載りました。

当時それらの雑誌に載ることは、

高校生にとって
ものすごいステータス。

学校内外で、
彼はちょっとした有名人でした。

かといって、
彼は勉強もけして疎かにはしませんでした。

テスト前は
勉強に集中して
電話にも出なくなるくらい。

その集中の仕方は半端ではなく、
とてもストイックなものでした。

普段私と同じように遊んでいるはずなのに、
いつもいい成績をおさめていました。

本当に頭のいい人でした。

私は
彼のことを
本当に尊敬していました。

何事にも一生懸命な
彼の姿を見ているうちに、

「やればできる」

という意識が

無意識のうちに
インストールされていたように思います。

とはいっても、

私がそれを自覚するのは
もう少し後のことですが。

ちなみに
その彼とは

6年間ほどお付き合いして

別れることになるのですが、

別れた後も
友人としての関係は続きました。

そして、
後に私の人生を変える

きっかけ

をくれたのも
また彼だったのです。

さて、
話は高校生時代に戻ります。

当時、
私たちの間にはとある文化がありました。

その名も
「100人パーティー」。

通称
「100パー」。

私が通っていた学校だけでなく、

他の私立の

女子校や
男子校の生徒なども交えて、

毎週夜、
どこかの生徒が

主催をしたパーティーが
開かれていたのでした。

その名の通り

毎回100人を目標に主催して
「大勢集めれば集めるほどすごい」というのが、

当時の私たちのステータスでした。

私は
年上の彼から聞いて、

いち早く
その「100パー」の存在を知ります。

「面白そう!」

そう思った私は、
さっそく自分でも主催することにしました。

私は友達と一緒に

学校内外の色々な子達に声をかけ、
人を集めました。

学年で一番最初に

「100パー」

の主催をしたのです。

そして学年で
「100パー」の主催を

先駆けた私たちは、
他校の子からも一目置かれる存在になったのでした。

私は
なんとも言えない

達成感

を感じていました。

こういうふうに
「人と人とを繋げる」ことを、

私はこの当時から

自然にしていたように思います。

この時は
そんな意識は特になかったんですが!

時は平成のはじめ、
バブルの終わり頃。

大勢の人で賑わう、

東京の

六本木や
歌舞伎町の一角。

そこで
夜な夜な繰り広げられる、

高校生たちの大騒ぎ。

もちろん、
学校の先生達はこんなこと知りません。

でも、薄々何かを察していたのか、

廊下ですれ違う時は
上から下までなめるように見られ

まるで、
私は「悪い子」のレッテル
を貼られている気分でした。

でもそんなの、
全く気になりません。

私が唯一気にしていたことといえば、

週末の「100パー」に
どんな洋服を着ていこうか

ということだけでした。

私はファッションに興味がありました。

そして
ファッションには
強いこだわりがありました。

当時女子高生の間で
流行っていたブランドといえば、

例えば

アルバローザ。
ハイビスカスの模様を覚えている方もいるのではないでしょうか。

他にも
ミージェーンとかロコネイルとか。

いかにも「ギャルです!」
という感じのファッションでした。

でも、私は
そういうのには興味がありませんでした。

当時の私は

「A.P.C.」や
「agnès b.」など

モノトーン系の
フランスのブランドの
洋服を好んで着ていました。

その当時、

ちょうどカラーコンタクトが
世に出始めた頃でした。

今でこそ
ドラッグストアなどで
安く手に入るカラーコンタクト。

ですが、
当時はまだ高くて、
高校生にとってはかなりの高級品でした。

だからそれを持っていると、
周りから

「すごい!」

と言われる、そんな感じです。

周りが
イケイケのギャル系ファッションをしている中。

まだ
カラーコンタクトも一般的でない頃。

私は

モノトーン系のファッションに
茶色いカラーコンタクト

をして楽しんでいました。

とにかく、
おしゃれが大好きでたまらなかったのです。

あの頃は、
おしゃれすること以外、

なーんにも考えていませんでした。

ステキな彼氏がいて、

友達に
「これやろうよ!」と

声をかけたらみんな
「わーい!」って感じで、

反対する人は誰もいなくて。

人間関係での
悩みは一切なし。

ただひたすら
おしゃれと遊びに明け暮れる日々。

そんな風にして、
私の女子高生時代の

前半は過ぎていきました。

「遊ぶのはもうやめる」宣言

でもそんな遊び放題な高校生活も、
振り返れば短いものでした。

高2の夏休み。

私は

「高2の夏休みを最後に
遊ぶのはもうやめる」

と皆に宣言しました。

受験勉強に
集中するためです。

行きたい大学
ができたのです。

きっかけは、

例の

「100人パーティー」

でした。

ある日、
女友達のマイコが、

私の彼氏と何やら親しげに話しをているのを見つけました。

「なぜこんなに親しげなのだろう」
と不思議に思い聞いてみました。

すると、
マイコの通う高校と

彼が進学する予定の大学が

近いのだということでした。

マイコは
とてもおしゃれで洗練されていて。

私は、

友達の中でも、
彼女とは特に仲良くなりたいと思っていました。

彼が通っていたのは、
ある大学の付属高校。

高校卒業後は、
ストレートで大学に進学が決まっています。

そしてマイコは、
その大学の近くの

女子大付属高校で、
彼女もまたその女子大への進学が決まっていました。

「卒業後も
2人の近くに居られたら
楽しいだろうな」

私はそう思いました。

女子大生
って響きに憧れもありました。

それで、
マイコと同じ女子大へ
進学することを決めます。

けれど
問題がありました。

 

私は、
全然勉強ができなかったのです。

まず、

中高一貫の私立高校
に通っていた私は、

「高校受験」
というものをしませんでした。

小テストで
良い点がとれなかった

中学一年の
はじめの頃から

ロクに勉強してこなかったのです。

本当に、
中学で教わることを全く知らないレベル。

正直、
ヤバかったです。

具体的に
どれぐらいヤバかったかというと、

テスト100点満点中、
8点や13点などをたたき出していた

と言えば伝わるでしょうか。

進級のたびに先生から

「これじゃあ進級させられないな」

と言われ、

毎回追試を受けて、
やっとのことで進級していたというありさまでした。

 

そして、
そんな状態で行われた進路相談。

 

それは
3者面談の形で行われました。

母と一緒に、
教室の机を挟んで先生と向き合って座りました。

私は先生に
その女子大に進学したいことを伝えます。

すると、
先生は言いました。

 

「専門学校も受けましょう」

 

それは
当時の私にしてみれば
ショックな言葉でした。

なぜなら、
まるで私が落ちることを前提に

話をされているかのように感じたからです。

今思えば、
先生の発言は
当然のことなのだろうと思います。

だけど当時の私は
「頭ごなしに自分の進路を否定された」ような気がして、

心を閉ざしました。

先生とも、
親とも、喋りたくない。

ふてくされた私は
黙りこくりました。

結局私は進路相談中、
ずっと口を開かないままでした。

当然それでは進路相談が進みません。

そうして母も先生も困らせたまま、
その面談は終わりました。

そんな様子を見た母は、
私が本当にその女子大学に行きたいのだということを
わかってくれたのだと思います。

色々と
調べてくれたようでした。

そして、
母はこう言いました。

「ねぇ、
亜希ちゃんでも
受かる方法を見つけたんだけど」

それは、
受験科目を絞るというものでした。

志望する女子大には
短期大学部があって、

そこには

国語と家庭科だけで

受験できる学科がありました。

私はその方法を知って、
勉強する科目を国語と家庭科の2つに絞りました。

毎日一生懸命努力しました。

 

何度も何度も、
過去問を解く日々。

 

その甲斐あって、
当日の試験問題もほぼ解けた感触があり、
達成感がありました。

高校3年生の冬。

合格発表の日、
その女子短大に結果を見に行きました。

 

結果は
見事合格。

 

自分の番号があるのを確認した私は、
近くの電話ボックスから学校の職員室に電話をかけました。

先生に合否を報告するためです。

「受かりました」

そう言うと
職員室がざわめいたのが、
受話器越しにもわかりました。

先生たちが驚くのも当然でした。

だって、
今まで100点満点中、
8点や13点をとっていた私です。

 

でも努力して、
志望校に受かった。

その頃、
3年生の廊下には

受かった大学と名前が
順次貼り出され、

その中に
私の名前ももちろんありました。

ずっと遊び続けた人はもちろん名前はないし、
中学から真面目に勉強してきた人とは、

さほど私と大差ない
偏差値の大学に入れたことを

誇らしく思いました。

その時
私は思ったのです。

「人って、やればできるんだ」

たった1回の小テストの結果だけのことで、
今まで自分は勉強ができないと思っていたけれど、
それは勉強をしてこなかっただけだったんだと。

 

「やればできる」

 

そのことを
初めてはっきりと実感した瞬間でした。

そして6年通った
中高の学校生活を卒業したのでした。